いのちの源
教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、尊容を拝し、歓喜身に余り、心の苦しみ忽ち息む。
我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。
現代語訳
教主釈尊の御宝前に母の遺骨を安置し、その前で全身を地に投げ、ひれ伏し、合掌して両眼を開いて教主釈尊の尊容を拝すれば、悦びが身体中にあふれて、母との別れという心の苦しみもたちまち消えたことであろう。わが頭は父母の頭、わが足は父母の足、わが十指は父母の十指、わが口は父母の口、自分の身体はすべて父母から頂戴したものなのだ。
「親孝行、したい時に親はなし」。
大聖人の教えを一言で表すならば「知恩報恩」に尽きるのではないでしょうか。
受けた恩の深さを知れば、報いずにはいられない。
その心を大聖人は法華経から受け取られたのです。
親の恩に気付くことは、取りも直さず、自らの命の源に気づくことであり、
生かされている自分の存在の重さ、尊さに目覚めることでもあるのです。
忘持経事
富木常忍が九十才で亡くなった母の遺骨を抱いて、下総(千葉県市川市)からはるばる身延の大聖人の下へ登詣し納骨した。その帰途、富木氏は自ら所持の経巻をご草庵に置き忘れた。大聖人はその経巻に手紙を添えて使いに届けさせたのが本書である。信仰に厳格な富木氏に似つかわしくない失態にユーモアを交えた説諭が見られる。この一節はまさに大聖人の前で見せた富木氏の亡き母への追慕孝養の姿であろう。またこの富木氏の納骨が身延山納骨の起源とも言われている。