懺悔
針は水にしずむ。
雨は空にとどまらず。
蟻子を殺せる者は地獄に入り、死に屍を切れる者は悪道をまぬがれず。
いかにいわんや、人身をうけたる者をころせる人をや。
ただし大石も海にうかぶ、船の力なり。
大火もきゆる事、水の用にあらずや。
小罪なれども、懺悔せざれば悪道をまぬがれず。
大逆なれども、懺悔すれば罪きえぬ。
現代語訳
針が水の中に沈み、雨が空中にとどまらないように、蟻を殺した者も地獄に堕ち、死体を切った者も地獄・餓鬼・畜生の三悪道へ堕ちることから免まぬがれることはできない。まして、いかに武士といえども人間を殺したとすればなおさらのことである。しかし、大石も船の力を借りて海に浮かぶことができ、大火も水の働きによって消すことがきるように、小さな罪でも悔い改めなければ必ず悪道に堕ちるが、大きな罪を犯した人でも悔い改めればその罪を消すことができるのである。
法華経の信仰は懺悔に始まり懺悔に終わるのです。
その懺悔の中に自分の罪の重さが自覚されてくるのではないでしょうか。
懺悔の唱題を積み重ねる中に、本仏釈尊に生かされている自己に気付くのです。
その時、懺悔の唱題は報恩の唱題ともなってくるのです。
光日房
安房・天津(千葉県安房天津)の人で、大聖人は光日房、光日上人とも呼ばれた。子に先立たれた尼への慰めと導きのお手紙である。子、弥四郎は生前、大聖人に深く帰依していた。ある時、大聖人の下を訪ねた弥四郎は時として、人を殺めなければならない武士である自らの後生の不安を訴え、さらには母に先立たなければならないかもしれない不孝を嘆き、万一の時には母の導きを依頼した。この一節は弥四郎の訃報に接し、改めて罪と法華経信仰による懺悔が説かれている。